外科療法の歴史

非復位性関節円板前方転位への対処法の歴史

1.関節円板前方転位の発見とその後の整位手法の実施
 関節円板前方転位は1970年代後半になってその存在が発見されアメリカで報告された病態です.それまで日本では痛みが強ければ鎮痛剤投与,咬合不正が原因だとの考えから咬合調整やマウスピースによる安定咬合賦与といった治療が行なわれていましたが,その治療効果はあまり大きくはなく,顎関節症は再発を繰り返す慢性疾患であるという認識が歯科医全般に持たれていました.そこに新たな病態の存在が明らかになり,しかも顎関節症全体に占めるこの病態の数が半数を超えていました.前方に転位した関節円板を後方に戻す(復位)という,アメリカでの徒手的あるいは外科的手法が紹介されたこともあって,日本でも盛んに転位円板を復位させるという治療方法が幾つも提案されました.1980年代から90年代にかけて多くの口腔外科においては,転位して後方に戻らなくなった関節円板(非復位性関節円板前方転位)を後方に復位させるという外科療法が多数行なわれました.その方法は円板転位の大きさや転位発現からの期間等に合せて,いろいろあり患者自身が行なう開口トレーニングや歯科医が患者の下顎をつかんで行なう復位法,さらには関節鏡による手術から顎関節を手術で開いて行なう円板整位術まで多岐に及びました.しかし2000年までにはこれらの手法がほとんど行われなくなっています.

2.その後行なわれなくなった外科的円板整位法
 関節円板前方転位を元に戻す外科的整位法が行なわれなくなった理由は1990年代後半に多くの歯科系大学や市中病院にMRIが設置され,MRIによって術後の顎関節の撮像がされるようになったためです.どういうことかというと,MRIが入る前までの関節円板転位を確実に診断するには,エックス線写真に写らない関節円板の形と位置を確認するため,顎関節腔に造影剤を注射して顎関節の断層写真を撮影する必要があったのです.患者にとっては眼の直ぐ近くに注射されるという苦痛を伴う検査です.このため,術後に円板が戻ったことを確認するために再度造影撮影を行なうことには,術者としても心理的抵抗があり,術後造影撮影はほとんど行なわれませんでした.しかしMRI撮影は非侵襲的で,患者への苦痛はありません.そこでMRIが導入されると,術前・術後と撮影されることになったのですが,術後撮影によって多くの関節円板が術後再転位していることが判明したのです.今から考えると,当時はまだTCHの影響には気づいていなかったことから,TCHによって再転位したのだろうと推測できるのですが,当時は再転位という病態再発が衝撃的で,これが大きな理由となって外科療法が選択されなくなっていきました.しかもその後の疫学的調査によって,無症状の非復位性関節円板転位をもつ人が10%以上存在しているという調査結果がいくつも公表されるようになり,前にずれた関節円板を手術を行なってでも戻すことの必然性が薄れていったのです.

3.以前行なわれていた強制開口練習への回帰
 東京医科歯科大学歯学部第一口腔外科においても,1996年に歯学部附属病院放射線科にMRIが設置され,円板を元に戻した術後患者の顎関節をMRIによって撮像できるようになったことから,早速術後症例の撮像を行ないました.その結果大多数の症例で円板の再転位がみとめられました.術後多くの症例では術直後の安静期間としての数日が経過した後に,術後創痛を鎮痛薬等で抑えながら開口練習を開始していました.これは手術創が治癒する過程での関節の不動化(固縮)を防止し関節の可動性を確保することを目的として,安静に保つだけではなく可動化訓練が必要とされるためです.多くの術後症例ではこの術後訓練によって,痛みなく大開口可能となり,食事も楽になっていきました.MRIの結果と合せて考えると,円板は再転位しているのに機能は問題なくなっていたということになります.この症状の改善と再転位の存在が両立するということは手術を行なった術者を困惑させました.今ではこのことは以下の様に考えられます.顎関節の開放手術を実施するためには,外耳道前方の皮膚を切開して顎関節を開きます.この手術操作により,顎関節の痛覚を脳に伝達する神経(耳介側頭神経の関節枝)が切断され,そのために術後の開口練習に伴う運動痛は皮膚切開縫合創部の痛みのみになるわけです.これが術後運動ができた大きな原因だと考えられるのです.術後に顎関節に分布する感覚神経は再度接続されるはずですが,それまでの期間に顎関節が大きく動けるようになっていれば,術前のように痛みが出ることはなくなっていたということでしょう.
 もうひとつ関節開放手術による円板整位術が行なわれなくなった原因があります.それは非復位性円板前方転位が発現してから一定期間経過すると,転位して変形した円板は後方に整位しても,下顎頭と下顎窩に挟まれた空間形態に合わなくなるのです.この原因は変形したままの経過期間中に,関節円板を構成する膠原細線維では線維間を補強する架橋結合が新たに形成され変形した形のままに固まるためではないかと推測しています.この変化を無視して整位手術を強行すると,多くの場合,狭いすき間に厚くなった関節円板が押し込まれることになり,術後に手術側の臼歯部が噛めないという開咬が発生し咀嚼活動が適切にできなくなる可能性があるのです.術者によっては手術中に咬合状態を見た上で関節円板表層を切除する,あるいは下顎頭を整形して咬合できるように調整するということも行なわれたようですが,関節円板にメスを入れることは,円板全体としてのネットワークを形成している膠原線維を切り離すことになり,術後の咀嚼運動時に関節円板全体としての形態を維持できるかという不安を拭いきれなくなります.また下顎頭の表層線維層を破壊する事により術後の円板と下顎頭との線維性癒着の危険が増加します.
 われわれは上述のような円板や下顎頭への追加処置は行なっていなませんが,非復位性関節円板前方転位に,保存的治療法が無効であったからとして開放手術を行なったことは,当時は画期的な手法であると思っていましたが今では間違いであったと認識しています.おそらくは全世界の多くの顎関節症専門医として関節円板整位術を行なった外科医は同じように考えているものと思います.そう思わせるのが,術後数年という短期の経過が良かったとの観察結果報告はみられますが,10年を越えるような長期予後調査結果は報告されていないことにあります.術後経過論文報告の場合,良好な結果は報告されますが不良な結果報告はなされない場合が多いという現実です.

4.近年実施されるようになった.金属製アンカーを用いた関節円板整位術
 近年,関節円板を後方に移動し,これを下顎頭後面に埋め込んだチタン製の固定器具に縫い付けるという手術がアメリカや中国で行なわれるようになりました.1980年頃に行なわれていた手術では円板を外側からV字形に切り取って縫い付けることで後方に引き込む,或いは外側靱帯に縫い付けて牽引するといった手法であったことから,円板を後方に維持させることが難しいという面がありました.しかし下顎頭に固定された金属に縫い付けることで円板の安定化をはかったわけです.これら手術の術後経過報告論文をみると,10年経過はないが以前の手法よりある程度長期経過もいいようです.しかし中には再転位や下顎頭の変形といった結果も少数ではあるが存在している.したがって治療期間短縮が求められる運動選手や歌手のような特殊な職業の患者を除けば,外科的整位術は避けられるなら避けた方がいいだろうと考えています.