これまで顎関節症になって歯科を受診した患者さんの大部分は,「口を開けると痛むんです」と言うと「それでは大きな口は開けないようにしなさい」と言われ,あるいは「食事で食べ物を咬もうとすると痛むんです」と訴えると「それなら硬いものは食べないようにしなさい」と助言されたと思います.要するに歯科医はなるべくあごの動きを小さく,やさしくして安静に保つようにと指示しているのです.ただ,それで痛みが消えるのはごく一部のタイプの顎関節症だけです.他のタイプの顎関節症はそのような対応で痛みが消えることはなく,時間経過と共に痛みは軽くはなりますが,口を開けるまたは食品を咬むときの痛みが完全に消えることはないでしょう.
膝にも「膝関節症」という顎関節症に似た病気があります.この膝関節症も歩くまたは正座するといった動作をすると痛みます.しかし膝関節症の場合は,整形外科を受診して痛みを訴えると,安静にするのではなく積極的に膝を動かすように指示されるはずです.動かし方については理学療法士といった専門家からのアドバイスが必要で,場合によっては理学療法士に動かして貰うこともあります.
このように顎関節症では安静にするようにと助言されますが,膝関節症では逆の助言がされるのです.どうしてこのような違いが生れたのでしょうか.その説明の前に,なぜ整形外科では膝を動かそうとするのかを説明します.これには昔から経験的に知られている事実があるのです.それは「よく動く関節に痛みはない」ということです.たとえば50歳を過ぎた人ならば,どなたでも膝の関節の骨には多少の変形があります.では変形のある方は皆さんが膝の痛みをもっているかと言えば,そうではないことはご存知だと思います.
そのような50歳以上で膝の痛みを持っていない方の関節が動く範囲(可動域)を調べると,皆さん大きな可動域を持っているのです.なぜ可動域が大きいといいのかと言いますと,関節はどこの関節でも同じですが,その関節に元々備わっていた可動域を維持することで,関節に必要な血液供給を受けられるからなのです.もし何らかの原因で血液供給が悪くなると,血液が運ぶ酸素と栄養不足から,痛みに敏感になったり逆に感覚が鈍くなったりします.正座を続けているとシビレルのはそのせいです.ですから関節はできる限りしっかりと動ける状態を維持する必要があるのです.このことを知っているので整形外科では膝関節症の患者に関節を良く動かすように指導し,または実際に理学療法士が関節を動かす動作を助けるのです.
それでは,なぜ歯科医はそのように指導しなかったのでしょうか.それには歯科医が経験した歴史があるのです.歯科医が取り扱う「むし歯」の痛みは爪の裏側に炎症を起こす「ひょう疽」や胆嚢や尿管に石ができる「結石」の痛みとともに「三大痛」と言われる,最も強い痛みの一つなのです.この3つの痛みは,全てが歯の内部とか,爪と骨にかこまれた狭い場所,または袋や菅の中というように,閉ざされた空間の中で炎症が起こるため,炎症で体液や膿が溜まってきても,逃げ道がないために内部にある痛みの神経が強く圧迫されることで生じる痛みなのです.しかも昔,むし歯は3つの病気の中でも最も多く,またこの痛みの原因になっている,むし歯への治療そのものも「歯を削る」という激烈な痛みを伴っていました.こういった経験から生れたのが麻酔薬です.最初の麻酔は歯科治療をやりやすくするために生れた方法だったのです.このように歯科医には痛みと闘ってきたという歴史があります.そこで顎関節症です.顎関節症が起こる顎関節も関節ですから,上に説明しましたように,可動域を維持するためには積極的に動かした方がいいのです.しかしたまたま,かみ合わせの状態に大きく影響する,いわばかみあわせのかなめになる顎関節は,歯科医にとって重要な関節であったがために,整形外科医ではなく歯科医が顎関節症に対応するようになりました.歯科医が対応するようになったがために,患者が訴える痛みの訴えに同情する歯科医は安静を助言するようになったというわけなのです.
しかし顎関節症で出る痛みは,むし歯の痛みほど激烈なものではありません.むし歯の痛みのように何もしていなくとも「ずきずき」痛むことはなく,あごを動かさなければ痛みが出ないというように,どちらかと言えば運動に伴っておこる運動痛であり,鈍いいたみでもあるのです.しかも理学療法士が直接動かすといったトレーニングでなくとも,事前の指導をきちんと受ければ,患者さんご自身が自宅で実施することも可能なトレーニングなのです.
別のコーナーで触れましたTCHもともにご自分でコントロールできているならば,われわれがお奨めしている「リハビリトレーニング」によって完全に痛みが消えます.これまでの治療で効果がなかった経験をお持ちの方は是非試してください.