未分類

あごの関節の話

あごの関節の話(1)

これから定期的に「あごの関節の話」を掲載しようと思います.あごの関節とその関連する構造や機能,あるいはほかの動物との比較など,木野がこれまで経験してきたことを元にして皆さんに知っていただきたいことを述べてみようと考えています.興味がおありの方は時々見に来てください.

あごの関節(顎関節[がくかんせつ])をご存知でしょうか.歯科治療の大きな目的はそれぞれの歯や歯列を健康に維持する,あるいは人工物で同じような形を再生させ,食事や会話という口の機能を回復させることにあります.この口腔機能は下あご(下顎)が問題なく動くことでささえられています.健康な歯がきれいに並んでいても,下顎の動きがスムースに行われないと,うまく食品を咀嚼することができませんし,会話も不明瞭になります.この下顎運動の支点となるのが顎関節です.この関節はほかの関節にくらべると非常にユニークな構造と運動機能を持っています.また進化の過程から考えても人間の顎関節は,形が似ているゴリラやチンパンジーを含めたほかの動物の顎関節とは大きく異なっています.これから何回かにわたって顎関節と下顎を動かす筋肉,また,最近ときおり話題になる顎関節症(がくかんせつしょう)について,また顎関節症と紛らわしい問題について述べていこうと思います.特に顎関節症については,その診断や治療にまだまだ混乱があります.顎関節症といっても全て同じではなく,いくつかの病態(病気の状態)があります.その病態をつきとめるまでの診断には一定の基準ができつつありますが,たとえ同じ分類に属する病態であっても,その病態に対して考えられた治療で症状が改善する患者さんもいれば,よくならない患者さんもいます.

また,病態に対する治療方法についてもさまざまです.歯科の医療保険で認められている治療方法があります.顎関節症の痛みや開口障害(口が開きにくいこと)を近くの歯医者に相談すると,歯列にかぶせるマウスピース(スプリントともいいます)を使いなさいと作ってくれます.多くの方はこのマウスピースを使うことで楽になるでしょう.しかし,この方法では良くならない患者さんもいます.よくならない患者さんに対して,歯医者の中には,保険外の自費治療として咬みあわせを全体的に直さねば良くならないと言い,全ての歯を削って咬みあわせの調整をしたり,歯列矯正治療を勧めたり,またある歯科医は大掛かりなかぶせ物による治療をしたりします.さらにはインターネットなどでも広告されているようですが,各種の特殊な形をしたマウスピースによる治療を勧める歯医者もいます.もちろんこのような治療によって改善した患者さんもいるのでしょう.しかし,われわれのところにはそのような治療でも良くならなかったという患者さんが多数おいでになります.これまで高額な自費治療を受けたのに痛みが取れない,咬みあわせが安定しないといったご不満を訴えておいでになるのです.

どうしてこのような治療の違い,治療に対する反応の違いが起こるのでしょうか.根本的な原因として,われわれは顎関節症が生活習慣病としての性格を持っているためだと考えています.たとえば生活習慣病の代表格である高血圧症の場合,その原因として塩分のとり過ぎ,喫煙習慣,ストレスの多い生活,その他色々な要因が関係していることはご存知だと思います.しかし,高血圧の方のそれぞれが皆同じ要因を持っているとは限りません.一人一人の持つ要因は他の人と異なっているのが一般的だと思います.そのため高血圧を改善させるためには,その人の持っている要因にあわせた対処方法が必要になるはずです.もちろん,上に述べたような要因をお持ちでない方なら,血圧を下げるお薬を短期間服用するだけで血圧は改善するでしょう.しかし多くの要因をお持ちの方は,生活状況を改善しなければ,薬だけでは改善しません.顎関節症についても同じようなことが言えるのです.顎関節やあごを動かす筋肉に負担を掛ける要因は多数あります.そのような要因を持っておられない方は,マウスピースを入れるだけで良くなるでしょう.このように症状の維持に関係する要因をお持ちでない方の場合,極端な言い方ですが,何もしなくともそのうちにあまり気にならなくなってしまう例もあり,そのような例ではどんな治療でも良くなるともいえます.しかし,色々な要因を持っておられる方には効果なく,また,今述べたような要因への対処を考えないで行われる治療方法は,どんなものであっても効果が出ないということになります.誰に対しても必ず効果があるといった治療方法はありません.その方の持つ要因への対処も考えた,いわばオーダーメードの治療を行わなければ良くならないと言うことができます.

このような顎関節症をとりまく色々な問題やトピックについてもお話ししていこうと思います.

あごの関節の話(2)

1.顎関節とはどんな関節?

体の中には多くの関節があります.それらの関節はそれぞれほかの関節とは違った特徴を備えていますが,そのなかでも顎関節は非常にユニークな運動をする構造を持っています.まず,どこにあるかというと,耳の穴(外耳道[がいじどう])の前にあります.外耳道の前方約10mmで,皮膚表面からの深さは約15mmほどのところです.外耳道の手前に両手の人差し指をあてて,口を開閉させると顎関節の関節軸(下顎頭[かがくとう])の回転する運動を指に感じることができるはずです.注意深い方は,大きく口を開けるときにこの下顎頭が前方に移動することも感じられたと思います.そうです.この関節の軸は大きく口を開けると前方に移動するのです.つまりこの関節は回転運動だけでなく,前方移動(前方滑走運動と言う)もできるのです(図1). 

このような回転と滑走運動を両方ともできる関節は他にはありません.しかも,この顎関節はひとつの下顎の左右両端についていて,このことも他の関節とは大きく異なる点ですが,片方の下顎頭だけを前方に出すこともできるのです.たとえば左の下顎頭はそのままにして,右の下顎頭だけを前に出せます.こうすると下顎が全体として左側にずれるのです.たとえると,トラクターが右に曲がるときに右のキャタピラを止めて,左のキャタピラだけを動かして車体が右に曲がっていくのに似ています.実はこのような動きは食物を咀嚼しているときの下顎の運動なのです.口の中で食物を咀嚼するときに下顎が左右にゆれていることは,少し気をつけるとおわかりだと思います.たとえばガムを右側の大臼歯で咬む動作をしてみてください.下顎がわずかに右にずれた位置から咬み込んでいき,最後に中心に戻ってかみしめることができるでしょう.このように食物の咀嚼には下顎が左右にゆれることが必要なのです.このような下顎の動きを可能にしているのが顎関節なのです.

では,顎関節の構造はどうなっているのでしょうか.関節には一般的に関節の軸と軸受けがあります.関節の軸は上で説明したように下顎頭です.これはちょうどマッシュルームを横から見たような形をしています.下顎骨が馬のひづめのような形をしていることはご存知だと思いますが,この下顎骨はその後方部分が上に向かって曲がっています.その頂上部分に文字通り頭のような形で下顎頭があります(図2:後ろから見た下顎頭).この下顎頭という関節軸に対する軸受けを下顎窩(かがくか)といいます(図1).「窩」というのは「へこんだ場所」という意味です.この下顎窩は実は脳を収めている頭蓋骨[とうがいこつ]の下面にあります.この軸受けの一番深い部分の骨は非常に薄く1mmの厚さもありません.その上側にはすぐ大脳があります.このように顎関節は距離的には脳に最も近いところにある関節と言えるかもしれません.非常にまれな例ですが,交通事故などで下顎の先端のオトガイをぶつけたときに,下顎が急激に動き,この下顎窩の薄い部分を下顎頭が突き破って脳の中に入り込むという報告があります.ただこのような事故はめったにありません.というのは,下顎窩の一番深い部分には,通常,力が及ばないからです.下顎窩の前方には関節隆起[かんせつりゅうき] という下方に突き出た骨があります.下顎窩からこの関節隆起にかけての斜面が咀嚼運動などの際の力を受ける部分であって,薄い骨からなる下顎窩の最深部ではないからです.前への滑走運動では下顎頭はこの関節隆起の前下方まで移動することができます(図1).この現象だけをみると「あごが外れた」状態です.そうです.ほかの関節で言うなら大きな口を開けるとあごは外れるのです.しかしほかの関節と違うことは,顎関節ではそれが普通の機能であるという点です.では「あごが外れた」とはどういうことなのでしょうか.口が開いたまま閉じなくなってしまった経験や,そのような方を見たこともおありかもしれません.この「あごが外れた」という現象については,https://kinoins.com/archives/117に説明していますのでそちらをご覧ください.ここでは下顎頭が前方に移動可能だということにとどめておきます.

もう一つ顎関節の構造で重要なものは関節円板(かんせつえんばん)です.顎関節症について考える場合には,最も大きな要因と言えるかもしれません.これは下顎頭と下顎窩や関節隆起との間にあります.骨ではないのでエックス線写真には写りませんが,ゴムタイヤのような硬く弾力性のある性質から,軟骨の一種としている研究者もいます(図1).下顎頭を包み込むようにおおっていて,上から見ると丸い円形に見えることから「円板」と呼ばれます(図3:関節円板の付着部位,図4:下顎頭を覆う関節円板を横から見たところ).

この関節円板によって関節のスペースは上下に完全に分離されています.よく性質の似た組織としてひざの関節にある半月板があります.この関節円板は下顎頭の内外側に強力に連結していて,下顎頭が前方滑走するときに一緒に前方に移動します.硬い組織ですがある程度は弾力性がありますから,下顎頭が前方に移動したときに,上下の骨の形が異なっても,間のスペースを埋めて仮の軸受けとなり,下顎頭を安定させます.

関節を構成する一般的な構造として,これら以外に関節包と靱帯があります.顎関節でも同じように関節包と靱帯がありますが,これらに関してはまたの機会に述べます.

あごの関節の話(3)

1.顎関節とはどんな関節?(続)

先回お話しした顎関節の関節軸となる下顎頭(かがくとう)や軸受けの形をした下顎窩(かがくか),実際に軸からの力を受けて支える関節隆起(かんせつりゅうき),下顎頭を包んでいる関節円板(かんせつえんばん)は,全体として関節包(かんせつほう)という薄い膜状の袋で包まれています.ただ先回お話ししたように下顎頭が大きく前方に移動するために,膝関節のようにきっちりと包まれていません.前方は開いていますし,内側は膜といえないような薄い境界があるだけです.がっちりした関節包がないことも大きく動く顎関節には必要なのです.

一般に関節には,その関節を構成している軸と軸受けの骨が離れてしまわないように,両方の骨を連結している靱帯(じんたい)がありますが,この靱帯構造も顎関節では少し変わっています.顎関節の外側には外側靱帯(がいそくじんたい)という靱帯があって,上の側頭骨(そくとうこつ)と下の下顎頭とを連結して離れないように支えています(図5)が,内側に内側靱帯といったものはありません.このような関節包や靱帯の形は,顎関節が一つの骨である下顎骨の両端にあることに関係しています.いわば両端にある二つの関節が一つの関節を作っているかのような形になっているのです.左右の顎関節のそれぞれ外側に外側靱帯や関節包があって,それぞれ内側にはそのような強化構造を持っていないというわけです.また,関節包の前方が開いていると言いました.このことは下顎頭の前方滑走のためであると同時に,この部分に前方から外側翼突筋(がいそくよくとつきん)という筋肉が入りこんでいて,関節円板の前端と下顎頭の前面に連結していることにも関係しています.下顎骨に付いている筋肉は他にもあり,それらについては次回お話しします.

顎関節の構造としてもう少し触れておくべきものとして,関節腔(かんせつくう)と滑膜(かつまく)があります.下顎頭を包む関節円板について説明しましたが,この関節円板があることで,先回述べたように顎関節では関節の内部空間(これを関節腔といいます)が完全に上下に分割されています.この二つの関節腔を上関節腔(じょうかんせつくう)と下関節腔(かかんせつくう)と言います.このように完全に別れた関節腔があるのは顎関節と胸鎖関節(きょうさかんせつと言い,胸にある肋骨の中心にある胸骨(きょうこつ)と鎖骨(さこつ)とを連結する関節)だけです.膝にも関節円板に良く似た半月板があります.ここでは2枚の半月板が関節内で向かい合っていますが,関節腔が完全に分かれているわけではありません.

この関節腔は空間といっても空気が入っているわけではなく,通常はぴったりと閉じていて,そこには極少量の関節液(かんせつえき)が入っています.この関節液の主成分はヒアルロン酸で,最近化粧品などに入っていることからご存知の方も多いかと思います.関節液のまたの名を滑液(かつえき)と言います.ヒアルロン酸を多く含んだ滑液はちょうど卵白のような粘稠性のある液体です.ラテン語ではシノビウム(Synovium)と言いますが,実は「たまごと同じようなもの」という意味なのです.この滑液があると,関節がこすれるときの摩擦係数は非常に小さくなり,機械の軸受けに使われるベアリングなどの構造よりもさらに動きやすくなります.滑液があるおかげで全身の関節がスムースになり,調和の取れた体の動きを保証してくれるのです.この滑液は関節包の内側にある滑膜(かつまく)の滑膜細胞から分泌されます.滑膜と言っても皮膚の表面にある角質層のように,くまなく表面を覆っているものではありません.昔関節を解剖して調べた学者が「膜」と言ったので,習慣的に使われている用語に過ぎません.どちらかというと膠原線維(こうげんせんい)が敷き詰められた上や内部にぱらぱらと滑膜細胞が散らばっているといった方が適切かもしれません.しかしこの滑膜細胞は関節機能にとって重要な働きをします.関節の中,特に圧迫されたり引っ張られたりする部分には血管がありません.血管があると必ず血管を取り巻く神経がありますから,この神経が圧迫されたり,引っ張られたりすると痛みが出てしまい,痛くて関節を動かせないということになるからです.血管がないということは酸素や栄養を関節内の組織に運べないことになります.この血液の代わりに酸素や栄養を運ぶのが滑液なのです.とはいっても,血液ほど効率良くは運べません.そのため,関節の内部にある構造物の多くが,通常の組織よりも酸素や栄養供給が少なくても耐えられるようになっています.このように栄養供給が低いということは,細菌などに対する抵抗力も小さいということになります.この対策として血管と関節との間には血液関節関門という関所があって,異物が関節内に侵入するのを防ぎ,また関節内の異物を外に出す機能もあります.この血液関節関門も滑膜の働きによるものです.さらに関節の中に周囲組織から血液が進入して,それが固まってしまうと関節が動かないことになります.このような状態を関節内血腫といいますが,滑膜細胞はこのような関節内にたまった血液が固まりにくくする働きもしています.ですから大きな外傷を受けて関節滑膜細胞の多くが障害されると,関節内血腫がさらに進んで関節が固まって軸と軸受けの骨がくっついてしまう,関節強直症(かんせつきょうちょくしょう)を起こすことになります.顎関節にこの状態が起こると口が数mmしか開かなくなって,流動食しか食べられなくなります.

次回はあごを動かす筋肉についてお話しいたします.

あごの関節の話(4)

2.顎関節を動かす筋肉は?

これまで,顎関節内部と周囲の構造についてお話ししました.ここからはこの関節を動かす,あるいは下あごの動きを支える筋肉の話をいたします.その前に多くの患者さんが誤解していらっしゃることを一つ指摘させてください.口を開けると上下に歯が並んでいて,これらの歯が食物を咀嚼(そしゃく)したり,口を動かすことで会話したりするのですが,動くのは下顎(かがく)だけです.上あごは動きません.時折診察中に「あごを前に突き出してください」と申し上げると「上あごですか下あごですか」とたずねられる方がいます.しかし,上顎(じょうがく)骨はそのまま頭蓋骨についていますので上あごを動かすことはできないのです.口の開け閉めや食物の咀嚼は,下顎だけが動いて上顎との関係を変化させることで行っている機能なのです.この下顎の動き(下顎が動くということは顎関節が動くということでもあります)は,多くの筋肉と靱帯によって営まれています.

まず咀嚼筋という筋肉があります.この名前は4つの筋肉を総称した言い方で,側頭筋(そくとうきん),咬筋(こうきん),内側翼突筋(ないそくよくとつきん),外側翼突筋(がいそくよくとつきん)が咀嚼筋の仲間です.この4つの筋肉はいずれも「かむ」ための筋肉といえます.側頭筋,咬筋,内側翼突筋は上顎の歯に下顎の歯をかませる方向(上方)に下顎を動かします.下顎骨は後方で上に向かって曲がっていますが,その上端の下顎頭の前に筋突起という上に向かって三角形に突き出した突起があります.側頭筋はこの筋突起と頭の左右の骨である側頭骨(そくとうこつ)とを連結しています.咬筋は下顎骨が上に曲がる部分の外側の表面とほお骨(頬骨きょうこつ)が弓のように後ろに向かって延びた部分(ここを頬骨弓きょうこつきゅうと言います)とを連結しています.内側翼突筋は咬筋とは下顎骨を間にはさんだ骨の内面と,その上方で上顎骨の後ろについている骨である蝶形骨(ちょうけいこつ)とを連結しています.これらの筋肉はいずれも上下方向に筋線維が並んでいますから,筋肉が収縮すると下顎を上方に引っ張ることになります.また外側翼突筋は,下顎頭の前面また一部は関節円板の前端と蝶形骨とを連結しています.この筋肉はかむときに関節の軸である下顎頭を関節隆起に押し付けてしっかりと固定させるように働きます.これら4種類の筋肉は口を閉じるときに働くので閉口筋とも呼びます.

口を開けるときに働く開口筋は下顎の下からのどに向かう筋肉でオトガイ舌骨筋(おとがいぜっこつきん),顎舌骨筋(がくぜっこつきん),顎二腹筋(がくにふくきん)という下顎骨の下方部分と舌骨とを連結している筋肉があります.オトガイ舌骨筋は下顎の先端部分であるオトガイの内面と下方にある舌骨とを連結しています.顎舌骨筋は下顎骨下縁の内側の広い範囲と舌骨とを連結しています.顎二腹筋はオトガイの内面と耳の後側にあって下方に突き出した乳様突起(にゅうようとっき)という骨の内側とを連結していますが,その途中で舌骨にも付着しています.これらの筋肉は閉口筋に比べると非常に薄かったり,細かったりしていて,発揮する力も閉口筋ほど強い力は出せません.これらの筋肉が収縮すると下顎骨が舌骨に向かって下方に引っ張られることになり口が開きます.ただ,これらに筋肉がついている舌骨は他のどの骨ともくっついていません.それでこれらの筋肉が収縮すると舌骨そのものも上方に引っ張られることになり,これでは充分に口を開くことができません.そこで舌骨が上に移動するのを防止するためのいくつかの筋肉が,舌骨をその下方にある骨と連結して舌骨を動かないように支えています.これらを総称して舌骨下筋群(ぜっこつかきんぐん),それに対して上で説明した舌骨と下顎骨とを連結する筋肉を舌骨上筋群(ぜっこつじょうきんぐん)と呼びます.(図6,7)

ここでお話した筋肉以外にも下顎骨の動きを間接的に支えているいくつかの筋肉があります.また下顎骨の動きには直接関連しないものの,顔面の表情を作り出す表情筋群がありますが,ここでは下顎骨に直接付いている筋肉の話に戻します.下顎骨には上で説明した筋肉が左右に一対となって付いています.つまり同じ名前の二つの筋肉が一つの下顎骨の左右に付いているのです.このことが,下顎が複雑な動きをすることを可能にしています.「あごの関節のはなし(2)」で関節の軸である下顎頭の左右片方だけを前に滑走させることができると言いました.この現象は左右に付いている筋肉が片方だけ働くことで起こります.右の下顎頭に付いている外側翼突筋が働いて,左の外側翼突筋が収縮しなければ右の下顎頭だけが前に引っ張られ,このために下顎は全体として左に動きます.実際には他の筋肉も同時に収縮したり,そのときに休んでいたりしていますが,このように左右に付いている筋肉を使い分けることによって,咀嚼機能という微妙な運動をしているのです.

顎関節症になると関節や筋肉に痛みが出るのですが,顎関節症の中には関節に問題のある場合と,関節には問題はないのですが筋肉だけが痛む場合があります.興味深いことに,筋肉で痛みが出るのは閉口筋がほとんどで,開口筋が痛むというのはまれです.さらに閉口筋である咬筋や側頭筋に痛みが出るとその筋肉を引き伸ばそうとする,つまり開口しようとすると痛みが強まります.このような例では開口が制限されて大きな口を開けることができなくなります.痛みのない開口筋群がどれほど頑張っても開口することができないのです.つまり閉口筋に問題がある顎関節症で開口しにくくなるのは,閉口筋が十分に弛緩(しかん:ゆるむこと)できなくなることが原因となります.上で開口筋は閉口筋に比べて力が弱いと言いましたが,開口という動作にはいわば閉口筋がゆるむことが必要で,開口筋はそれを補助しているだけであることを示しています.

あごの関節の話(5)

3.顎関節症は人間だけが苦しむ病気?

最近は顎関節症という病名も多くの方に知られるようになりましたが,20年くらい前には「聞いたことがない」という患者さんも多数いました.外傷や炎症による痛みのように強い痛みが出ることはまれで,口を開こうとしたり食物をかみしめようとするときに出現する鈍痛であるため,患者さんの中には初めての診察を受けるまでに1年以上痛みを抱えたままで生活してきたという方も多くおいででした.痛みとしては,このように「わずらわしい」,「うっとおしい」と表現されるような鈍痛が特徴と言えるかもしれません.

この顎関節症について原因や,その状態を調べ治療にむすびつけようとして,これまで世界中の研究者が実験動物を使って顎関節症を作り出そうとしてきました.どうしてそのようなことをするのかといいますと,実験的に作り出した病気に各種の治療方法を行うことで,有効な治療法を見つけようとするためで,治療方法を見つけるための基本的な手法なのです.しかしその試みは全て失敗したと行ってもいいと思います.といいますのは,顎関節症の症状はそれほど激烈なものではありません.そのため顎関節症の原因になると考えられている傷を動物の顎関節に作り出しても,動物は痛みであごを動かさなくなるのではなく,痛くとも餌を食べようとして動かしてしまいます.動かす動作を続けているうちに関節内の血液循環がよくなることで傷が治り,顎関節症も消えてしまうのです.このような経験から,どうも顎関節症に悩むのは人間だけであろうと考えられるようになったわけです.この「痛くても動かす」という訓練は,その後われわれが「リハビリトレーニング」と呼ぶ方法として取り入れ治療に役立てています.

また,1979年にアメリカにおいて,それまでなかった新しい顎関節症の病態(病気の状態)に関する提案がありました.多くの顎関節症患者さんの関節内において,関節円板(前述)が前方にずれているというのです.これを関節円板前方転位(図8)といいます.

この変形が起こると,口の開け閉めに「カクカク」といった音が出る様になります.音だけなら少し煩わしいですが,気にしない人も多くいます.しかしそのうちの5%程の人では,ある日突然口が大きく開けられなくなり,大きな食品を口に入れることが困難になります.無理に開けようとすると顎関節や筋肉に痛みがでます.まさに顎関節症の典型的な症状になるのです.われわれの調査でも,多いときは1年間に初診で来院する顎関節症患者さんの7割は関節円板が前方にずれることで起きる症状をもっておられました.人間だけではなく他の動物にもあるのではないかと考え,多くの動物が調査されましたが,これまで人間以外ではこの関節円板前方転位は見つかっていません.そうしたことから,この関節円板前方転位を再現しようとして,多くの研究者が,色々な動物を使ってこの前方転位を作り出そうとしました.人間にはこれだけ多く出てくる関節円板のずれですので,実験動物でもそのような現象を起こすことは簡単に違いないと考えられたためです.ところがこの関節円板前方転位の再現実験も全て失敗しています.唯一「作った」と主張している研究者は,動物の顎関節をメスで切り開き,関節円板を露出させてから前にずらせていました.このような手法で起きた円板前方転位は,人間に起きる円板前方転位とは全く異なっています.したがって,この方法で作られた病態からは,有効な治療方法が提案されることもありませんでした.

このように顎関節症は人間だけに現れる病気といっても過言ではありません.どうして関節円板前方転位が人間だけに起きるのかについては次回から説明します.

あごの関節の話(6)

4.どうして人間だけが顎関節症(特に関節円板前方転位)に苦しむのか

関節円板前方転位は人間だけに見られる異常だと説明しました.どうしてそのようなことが起こったのでしょうか.それには幾つかの原因があると考えています.その一つはヒト顎関節の構造が人間の顎の運動を十分にささえる形になっていないことです.そしてもう一つは構造の悪さにも関わるのですがヒト顎関節の進化的未熟さが関係すると考えています.

1)顎関節症の中では関節円板前方転位が最も割合が高い

 図9をご覧ください.このグラフは2008年1年の間に東京医科歯科大学歯学部顎関節治療部に来院した,全顎関節疾患新患患者のうちの左の顎関節に問題があった,1657名の病気の種類別割合を示したものです.顎関節症には日本顎関節学会が定めた4つの病態(病気のタイプ)があり,それぞれ咀嚼筋痛障害,顎関節痛障害,顎関節円板障害,変形性顎関節症と呼びます.その中で顎関節円板障害が70%と圧倒的に多いことを示しています.この顎関節円板障害というタイプが先回説明した,関節円板が主に前方にずれて起こる病気なのです.このように,顎関節症患者が多く来院する施設においては顎関節症のうちでも顎関節円板障害の割合が最も高くなります.なぜこれほどまでに顎関節円板障害,すなわち顎関節円板前方転位が多いのでしょうか.それを考える第1のヒントは他の哺乳類の関節構造にありました.それについては次回説明します.