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あごの関節の話

はじめに

「あごの関節の話」を掲載しようと思います.あごの関節とその関連する構造や機能,あるいはほかの動物との比較など,木野がこれまで経験してきたことを元にして皆さんに知っていただきたいことを述べてみようと考えています.興味がおありの方は時々見に来てください.

あごの関節(顎関節[がくかんせつ])をご存知でしょうか.歯科治療の大きな目的はそれぞれの歯や歯列を健康に維持する,あるいは人工物で同じような形を再生させ,食事や会話という口の機能を回復させることにあります.この口腔機能は下あご(下顎)が問題なく動くことでささえられています.健康な歯がきれいに並んでいても,下顎の動きがスムースに行われないと,うまく食品を咀嚼することができませんし,会話も不明瞭になります.この下顎運動の支点となるのが顎関節です.この関節はほかの関節にくらべると非常にユニークな構造と運動機能を持っています.また進化の過程から考えても人間の顎関節は,形が似ているゴリラやチンパンジーを含めたほかの動物の顎関節とは大きく異なっています.これから何回かにわたって顎関節と下顎を動かす筋肉,また,最近ときおり話題になる顎関節症(がくかんせつしょう)について,また顎関節症と紛らわしい問題について述べていこうと思います.特に顎関節症については,その診断や治療にまだまだ混乱があります.顎関節症といっても全て同じではなく,いくつかの病態(病気の状態)があります.その病態をつきとめるまでの診断には一定の基準ができつつありますが,たとえ同じ分類に属する病態であっても,その病態に対して考えられた治療で症状が改善する患者さんもいれば,よくならない患者さんもいます.

また,病態に対する治療方法についてもさまざまです.歯科の医療保険で認められている治療方法があります.顎関節症の痛みや開口障害(口が開きにくいこと)を近くの歯医者に相談すると,歯列にかぶせるマウスピース(スプリントともいいます)を使いなさいと作ってくれます.多くの方はこのマウスピースを使うことで楽になるでしょう.しかし,この方法では良くならない患者さんもいます.よくならない患者さんに対して,歯医者の中には,保険外の自費治療として咬みあわせを全体的に直さねば良くならないと言い,全ての歯を削って咬みあわせの調整をしたり,歯列矯正治療を勧めたり,またある歯科医は大掛かりなかぶせ物による治療をしたりします.さらにはインターネットなどでも広告されているようですが,各種の特殊な形をしたマウスピースによる治療を勧める歯医者もいます.もちろんこのような治療によって改善した患者さんもいるのでしょう.しかし,われわれのところにはそのような治療でも良くならなかったという患者さんが多数おいでになります.これまで高額な自費治療を受けたのに痛みが取れない,咬みあわせが安定しないといったご不満を訴えておいでになるのです.

どうしてこのような治療の違い,治療に対する反応の違いが起こるのでしょうか.根本的な原因として,われわれは顎関節症が生活習慣病としての性格を持っているためだと考えています.たとえば生活習慣病の代表格である高血圧症の場合,その原因として塩分のとり過ぎ,喫煙習慣,ストレスの多い生活,その他色々な要因が関係していることはご存知だと思います.しかし,高血圧の方のそれぞれが皆同じ要因を持っているとは限りません.一人一人の持つ要因は他の人と異なっているのが一般的だと思います.そのため高血圧を改善させるためには,その人の持っている要因にあわせた対処方法が必要になるはずです.もちろん,上に述べたような要因をお持ちでない方なら,血圧を下げるお薬を短期間服用するだけで血圧は改善するでしょう.しかし多くの要因をお持ちの方は,生活状況を改善しなければ,薬だけでは改善しません.顎関節症についても同じようなことが言えるのです.顎関節やあごを動かす筋肉に負担を掛ける要因は多数あります.そのような要因を持っておられない方は,マウスピースを入れるだけで良くなるでしょう.このように症状の維持に関係する要因をお持ちでない方の場合,極端な言い方ですが,何もしなくともそのうちにあまり気にならなくなってしまう例もあり,そのような例ではどんな治療でも良くなるともいえます.しかし,色々な要因を持っておられる方には効果なく,また,今述べたような要因への対処を考えないで行われる治療方法は,どんなものであっても効果が出ないということになります.誰に対しても必ず効果があるといった治療方法はありません.その方の持つ要因への対処も考えた,いわばオーダーメードの治療を行わなければ良くならないと言うことができます.

このような顎関節症をとりまく色々な問題やトピックについてもお話ししていこうと思います.

1.顎関節とはどんな関節?

体の中には多くの関節があります.それらの関節はそれぞれほかの関節とは違った特徴を備えていますが,そのなかでも顎関節は非常にユニークな運動をする構造を持っています.まず,どこにあるかというと,耳の穴(外耳道[がいじどう])の前にあります.外耳道の前方約10mmで,皮膚表面からの深さは約15mmほどのところです.外耳道の手前に両手の人差し指をあてて,口を開閉させると顎関節の関節軸(下顎頭[かがくとう])の回転する運動を指に感じることができるはずです.注意深い方は,大きく口を開けるときにこの下顎頭が前方に移動することも感じられたと思います.そうです.この関節の軸は大きく口を開けると前方に移動するのです.つまりこの関節は回転運動だけでなく,前方移動(前方滑走運動と言う)もできるのです(図1).

このような回転と滑走運動を両方ともできる関節は他にはありません.しかも,この顎関節はひとつの下顎の左右両端についていて,このことも他の関節とは大きく異なる点ですが,片方の下顎頭だけを前方に出すこともできるのです.たとえば左の下顎頭はそのままにして,右の下顎頭だけを前に出せます.こうすると下顎が全体として左側にずれるのです.たとえると,トラクターが右に曲がるときに右のキャタピラを止めて,左のキャタピラだけを動かして車体が右に曲がっていくのに似ています.実はこのような動きは食物を咀嚼しているときの下顎の運動なのです.口の中で食物を咀嚼するときに下顎が左右にゆれていることは,少し気をつけるとおわかりだと思います.たとえばガムを右側の大臼歯で咬む動作をしてみてください.下顎がわずかに右にずれた位置から咬み込んでいき,最後に中心に戻ってかみしめることができるでしょう.このように食物の咀嚼には下顎が左右にゆれることが必要なのです.このような下顎の動きを可能にしているのが顎関節なのです.

では,顎関節の構造はどうなっているのでしょうか.関節には一般的に関節の軸と軸受けがあります.関節の軸は上で説明したように下顎頭です.これはちょうどマッシュルームを横から見たような形をしています.下顎骨が馬のひづめのような形をしていることはご存知だと思いますが,この下顎骨はその後方部分が上に向かって曲がっています.その頂上部分に文字通り頭のような形で下顎頭があります(図2:後ろから見た下顎頭).

この下顎頭という関節軸に対する軸受けを下顎窩(かがくか)といいます(図1).「窩」というのは「へこんだ場所」という意味です.この下顎窩は実は脳を収めている頭蓋骨[とうがいこつ]の下面にあります.この軸受けの一番深い部分の骨は非常に薄く1mmの厚さもありません.その上側にはすぐ大脳があります.このように顎関節は距離的には脳に最も近いところにある関節と言えるかもしれません.非常にまれな例ですが,交通事故などで下顎の先端のオトガイをぶつけたときに,下顎が急激に動き,この下顎窩の薄い部分を下顎頭が突き破って脳の中に入り込むという報告があります.ただこのような事故はめったにありません.というのは,下顎窩の一番深い部分には,通常,力が及ばないからです.下顎窩の前方には関節隆起[かんせつりゅうき] という下方に突き出た骨があります.下顎窩からこの関節隆起にかけての斜面が咀嚼運動などの際の力を受ける部分であって,薄い骨からなる下顎窩の最深部ではないからです.前への滑走運動では下顎頭はこの関節隆起の前下方まで移動することができます(図1).この現象だけをみると「あごが外れた」状態です.そうです.ほかの関節で言うなら大きな口を開けるとあごは外れるのです.しかしほかの関節と違うことは,顎関節ではそれが普通の機能であるという点です.では「あごが外れた」とはどういうことなのでしょうか.口が開いたまま閉じなくなってしまった経験や,そのような方を見たこともおありかもしれません.この「あごが外れた」という現象については,https://kinoins.com/archives/117に説明していますのでそちらをご覧ください.ここでは下顎頭が前方に移動可能だということにとどめておきます.

もう一つ顎関節の構造で重要なものは関節円板(かんせつえんばん)です.顎関節症について考える場合には,最も大きな要因と言えるかもしれません.これは下顎頭と下顎窩や関節隆起との間にあります.骨ではないのでエックス線写真には写りませんが,ゴムタイヤのような硬く弾力性のある性質から,軟骨の一種としている研究者もいます(図1).下顎頭を包み込むようにおおっていて,上から見ると丸い円形に見えることから「円板」と呼ばれます(図3:関節円板の付着部位,図4:下顎頭を覆う関節円板を横から見たところ).

この関節円板によって関節のスペースは上下に完全に分離されています.よく性質の似た組織としてひざの関節にある半月板があります.この関節円板は下顎頭の内外側に強力に連結していて,下顎頭が前方滑走するときに一緒に前方に移動します.硬い組織ですがある程度は弾力性がありますから,下顎頭が前方に移動したときに,上下の骨の形が異なっても,間のスペースを埋めて仮の軸受けとなり,下顎頭を安定させます.

関節を構成する一般的な構造として,これら以外に関節包と靱帯があります.顎関節でも同じように関節包と靱帯があります.上でお話しした顎関節の関節軸となる下顎頭(かがくとう)や軸受けの形をした下顎窩(かがくか),実際に軸からの力を受けて支える関節隆起(かんせつりゅうき),下顎頭を包んでいる関節円板(かんせつえんばん)は,全体として関節包(かんせつほう)という薄い膜状の袋で包まれています.ただすでにお話ししたように下顎頭が大きく前方に移動するために,膝関節のようにきっちりと包まれていません.前方は開いていますし,内側は膜といえないような薄い境界があるだけです.がっちりした関節包がないことも大きく動く顎関節には必要なのです.

一般に関節には,その関節を構成している軸と軸受けの骨が離れてしまわないように,両方の骨を連結している靱帯(じんたい)がありますが,この靱帯構造も顎関節では少し変わっています.顎関節の外側には外側靱帯(がいそくじんたい)という靱帯があって,上の側頭骨(そくとうこつ)と下の下顎頭とを連結して離れないように支えています(図5)が,内側に内側靱帯といったものはありません.このような関節包や靱帯の形は,顎関節が一つの骨である下顎骨の両端にあることに関係しています.いわば両端にある二つの関節が一つの関節を作っているかのような形になっているのです.左右の顎関節のそれぞれ外側に外側靱帯や関節包があって,それぞれ内側にはそのような強化構造を持っていないというわけです.また,関節包の前方が開いていると言いました.このことは下顎頭の前方滑走のためであると同時に,この部分に前方から外側翼突筋(がいそくよくとつきん)という筋肉が入りこんでいて,関節円板の前端と下顎頭の前面に連結していることにも関係しています.下顎骨に付いている筋肉は他にもあり,それらについては筋肉の項目でお話しします.

顎関節の構造としてもう少し触れておくべきものとして,関節腔(かんせつくう)と滑膜(かつまく)があります.下顎頭を包む関節円板について説明しましたが,この関節円板があることで,前に述べたように顎関節では関節の内部空間(これを関節腔といいます)が完全に上下に分割されています.この二つの関節腔を上関節腔(じょうかんせつくう)と下関節腔(かかんせつくう)と言います.このように完全に別れた関節腔があるのは顎関節と胸鎖関節(きょうさかんせつと言い,胸にある肋骨の中心にある胸骨(きょうこつ)と鎖骨(さこつ)とを連結する関節)だけです.膝にも関節円板に良く似た半月板があります.ここでは2枚の半月板が関節内で向かい合っていますが,関節腔が完全に分かれているわけではありません.

この関節腔は空間といっても空気が入っているわけではなく,通常はぴったりと閉じていて,そこには極少量の関節液(かんせつえき)が入っています.この関節液の主成分はヒアルロン酸で,最近化粧品などに入っていることからご存知の方も多いかと思います.関節液のまたの名を滑液(かつえき)と言います.ヒアルロン酸を多く含んだ滑液はちょうど卵白のような粘稠性のある液体です.ラテン語ではシノビウム(Synovium)と言いますが,実は「たまごと同じようなもの」という意味なのです.この滑液があると,関節がこすれるときの摩擦係数は非常に小さくなり,機械の軸受けに使われるベアリングなどの構造よりもさらに動きやすくなります.滑液があるおかげで全身の関節がスムースになり,調和の取れた体の動きを保証してくれるのです.この滑液は関節包の内側にある滑膜(かつまく)の滑膜細胞から分泌されます.滑膜と言っても皮膚の表面にある角質層のように,くまなく表面を覆っているものではありません.昔関節を解剖して調べた学者が「膜」と言ったので,習慣的に使われている用語に過ぎません.どちらかというと膠原線維(こうげんせんい)が敷き詰められた上や内部にぱらぱらと滑膜細胞が散らばっているといった方が適切かもしれません.しかしこの滑膜細胞は関節機能にとって重要な働きをします.関節の中,特に圧迫されたり引っ張られたりする部分には血管がありません.血管があると必ず血管を取り巻く神経がありますから,この神経が圧迫されたり,引っ張られたりすると痛みが出てしまい,痛くて関節を動かせないということになるからです.血管がないということは酸素や栄養を関節内の組織に運べないことになります.この血液の代わりに酸素や栄養を運ぶのが滑液なのです.とはいっても,血液ほど効率良くは運べません.そのため,関節の内部にある構造物の多くが,通常の組織よりも酸素や栄養供給が少なくても耐えられるようになっています.このように栄養供給が低いということは,細菌などに対する抵抗力も小さいということになります.この対策として血管と関節との間には血液関節関門という関所があって,異物が関節内に侵入するのを防ぎ,また関節内の異物を外に出す機能もあります.この血液関節関門も滑膜の働きによるものです.さらに関節の中に周囲組織から血液が進入して,それが固まってしまうと関節が動かないことになります.このような状態を関節内血腫といいますが,滑膜細胞はこのような関節内にたまった血液が固まりにくくする働きもしています.ですから大きな外傷を受けて関節滑膜細胞の多くが障害されると,関節内血腫がさらに進んで関節が固まって軸と軸受けの骨がくっついてしまう,関節強直症(かんせつきょうちょくしょう)を起こすことになります.顎関節にこの状態が起こると口が数mmしか開かなくなって,流動食しか食べられなくなります.

2.顎関節を動かす筋肉は?

これまで,顎関節内部と周囲の構造についてお話ししました.ここからはこの関節を動かす,あるいは下あごの動きを支える筋肉の話をいたします.その前に多くの患者さんが誤解していらっしゃることを一つ指摘させてください.口を開けると上下に歯が並んでいて,これらの歯が食物を咀嚼(そしゃく)したり,口を動かすことで会話したりするのですが,動くのは下顎(かがく)だけです.上あごは動きません.時折診察中に「あごを前に突き出してください」と申し上げると「上あごですか下あごですか」とたずねられる方がいます.しかし,上顎(じょうがく)骨はそのまま頭蓋骨についていますので上あごを動かすことはできないのです.口の開け閉めや食物の咀嚼は,下顎だけが動いて上顎との関係を変化させることで行っている機能なのです.この下顎の動き(下顎が動くということは顎関節が動くということでもあります)は,多くの筋肉と靱帯によって営まれています.

まず咀嚼筋という筋肉があります.この名前は4つの筋肉を総称した言い方で,側頭筋(そくとうきん),咬筋(こうきん),内側翼突筋(ないそくよくとつきん),外側翼突筋(がいそくよくとつきん)が咀嚼筋の仲間です.この4つの筋肉はいずれも「かむ」ための筋肉といえます.側頭筋,咬筋,内側翼突筋は上顎の歯に下顎の歯をかませる方向(上方)に下顎を動かします.下顎骨は後方で上に向かって曲がっていますが,その上端の下顎頭の前に筋突起という上に向かって三角形に突き出した突起があります.側頭筋はこの筋突起と頭の左右の骨である側頭骨(そくとうこつ)とを連結しています.咬筋は下顎骨が上に曲がる部分の外側の表面とほお骨(頬骨きょうこつ)が弓のように後ろに向かって延びた部分(ここを頬骨弓きょうこつきゅうと言います)とを連結しています.内側翼突筋は咬筋とは下顎骨を間にはさんだ骨の内面と,その上方で上顎骨の後ろについている骨である蝶形骨(ちょうけいこつ)とを連結しています.これらの筋肉はいずれも上下方向に筋線維が並んでいますから,筋肉が収縮すると下顎を上方に引っ張ることになります.また外側翼突筋は,下顎頭の前面また一部は関節円板の前端と蝶形骨とを連結しています.この筋肉はかむときに関節の軸である下顎頭を関節隆起に押し付けてしっかりと固定させるように働きます.これら4種類の筋肉は口を閉じるときに働くので閉口筋とも呼びます.

口を開けるときに働く開口筋は下顎の下からのどに向かう筋肉で,オトガイ舌骨筋(おとがいぜっこつきん),顎舌骨筋(がくぜっこつきん),顎二腹筋(がくにふくきん)という下顎骨の下方部分と舌骨とを連結している筋肉があります.オトガイ舌骨筋は下顎の先端部分であるオトガイの内面と下方にある舌骨とを連結しています.顎舌骨筋は下顎骨下縁の内側の広い範囲と舌骨とを連結しています.顎二腹筋はオトガイの内面と耳の後側にあって下方に突き出した乳様突起(にゅうようとっき)という骨の内側とを連結していますが,その途中で舌骨にも付着しています.これらの筋肉は閉口筋に比べると非常に薄かったり,細かったりしていて,発揮する力も閉口筋ほど強い力は出せません.これらの筋肉が収縮すると下顎骨が舌骨に向かって下方に引っ張られることになり口が開きます.ただ,これらに筋肉がついている舌骨は他のどの骨ともくっついていません.それでこれらの筋肉が収縮すると舌骨そのものも上方に引っ張られることになり,これでは充分に口を開くことができません.そこで舌骨が上に移動するのを防止するためのいくつかの筋肉が,舌骨をその下方にある骨と連結して舌骨を動かないように支えています.これらを総称して舌骨下筋群(ぜっこつかきんぐん),それに対して上で説明した舌骨と下顎骨とを連結する筋肉を舌骨上筋群(ぜっこつじょうきんぐん)と呼びます.(図6,7)

ここでお話した筋肉以外にも下顎骨の動きを間接的に支えているいくつかの筋肉があります.また下顎骨の動きには直接関連しないものの,顔面の表情を作り出す表情筋群がありますが,ここでは下顎骨に直接付いている筋肉の話に戻します.下顎骨には上で説明した筋肉が左右に一対となって付いています.つまり同じ名前の二つの筋肉が一つの下顎骨の左右に付いているのです.このことが,下顎が複雑な動きをすることを可能にしています.「1.顎関節とはどんな関節?」で関節の軸である下顎頭の左右片方だけを前に滑走させることができると言いました.この現象は左右に付いている筋肉が片方だけ働くことで起こります.右の下顎頭に付いている外側翼突筋が働いて,左の外側翼突筋が収縮しなければ右の下顎頭だけが前に引っ張られ,このために下顎は全体として左に動きます.実際には他の筋肉も同時に収縮したり,そのときに休んでいたりしていますが,このように左右に付いている筋肉を使い分けることによって,咀嚼機能という微妙な運動をしているのです.

顎関節症になると関節や筋肉に痛みが出るのですが,顎関節症の中には関節に問題のある場合と,関節には問題はないのですが筋肉だけが痛む場合があります.興味深いことに,筋肉で痛みが出るのは閉口筋がほとんどで,開口筋が痛むというのはまれです.さらに閉口筋である咬筋や側頭筋に痛みが出るとその筋肉を引き伸ばそうとする,つまり開口しようとすると痛みが強まります.このような例では開口が制限されて大きな口を開けることができなくなります.痛みのない開口筋群がどれほど頑張っても開口することができないのです.つまり閉口筋に問題がある顎関節症で開口しにくくなるのは,閉口筋が十分に弛緩(しかん:ゆるむこと)できなくなることが原因となります.

上で開口筋は閉口筋に比べて力が弱いと言いましたが,開口という動作にはいわば閉口筋がゆるむことが必要で,開口筋はそれを補助しているだけであることを示しています.

3.顎関節症は人間だけが苦しむ病気?

最近は顎関節症という病名も多くの方に知られるようになりましたが,40年くらい前には「聞いたことがない」という患者さんも多数いました.外傷や炎症による痛みのように強い痛みが出ることはまれで,口を開こうとしたり食物をかみしめようとするときに出現する鈍痛であるため,患者さんの中には初めての診察を受けるまでに1年以上痛みを抱えたままで生活してきたという方も多くおいででした.痛みとしては,このように「わずらわしい」,「うっとおしい」と表現されるような鈍痛が特徴と言えるかもしれません.

この顎関節症について原因や,その状態を調べ治療にむすびつけようとして,これまで世界中の研究者が実験動物を使って顎関節症を作り出そうとしてきました.どうしてそのようなことをするのかといいますと,実験的に作り出した病気に各種の治療方法を行うことで,有効な治療法を見つけようとするためで,治療方法を見つけるための基本的な手法なのです.しかしその試みは全て失敗したと行ってもいいと思います.といいますのは,顎関節症の症状はそれほど激烈なものではありません.そのため顎関節症の原因になると考えられている傷を動物の顎関節に作り出しても,動物は痛みであごを動かさなくなるのではなく,痛くとも餌を食べようとして動かしてしまいます.動かす動作を続けているうちに関節内の血液循環がよくなることで傷が治り,顎関節症も消えてしまうのです.このような経験から,どうも顎関節症に悩むのは人間だけであろうと考えられるようになったわけです.この「痛くても動かす」という訓練は,その後われわれが「リハビリトレーニング」と呼ぶ方法として取り入れ治療に役立てています.

また,1979年にアメリカにおいて,それまでなかった新しい顎関節症の病態(病気の状態)に関する提案がありました.多くの顎関節症患者さんの関節内において,関節円板(前述)が前方にずれているというのです.これを関節円板前方転位(図8)といいます.

この変形が起こると,口の開け閉めに「カクカク」といった音が出る様になります.音だけなら少し煩わしいですが,気にしない人も多くいます.しかしそのうちの5%ほどの人では,ある日突然口が大きく開けられなくなり,大きな食品を口に入れることが困難になります.無理に開けようとすると顎関節や筋肉に痛みがでます.まさに顎関節症の典型的な症状になるのです.われわれの調査でも,多いときは1年間に初診で来院する顎関節症患者さんの7割は関節円板が前方にずれることで起きる症状をもっておられました.人間だけではなく他の動物にもあるのではないかと考え,多くの動物が調査されましたが,これまで人間以外ではこの関節円板前方転位は見つかっていません.そうしたことから,この関節円板前方転位を再現しようとして,多くの研究者が,色々な動物を使ってこの前方転位を作り出そうとしました.人間にはこれだけ多く出てくる関節円板のずれですので,実験動物でもそのような現象を起こすことは簡単に違いないと考えられたためです.ところがこの関節円板前方転位の再現実験も全て失敗しています.唯一「作った」と主張している研究者は,動物の顎関節をメスで切り開き,関節円板を露出させてから前にずらせていました.このような手法で起きた円板前方転位は,人間に起きる円板前方転位とは全く異なっています.したがって,この方法で作られた病態からは,有効な治療方法が提案されることもありませんでした.このように顎関節症は人間だけに現れる病気といっても過言ではありません.

4.関節円板前方転位は人間だけにある?

関節円板前方転位は人間だけに見られる異常だと説明しました.どうしてそのようなことが起こったのでしょうか.それには幾つかの原因があると思われます.その一つはヒト顎関節の構造が人間の顎の運動を十分にささえる形になっていないことです.そしてもう一つは構造の悪さにも関わるのですがヒト顎関節の進化的未熟さが関係すると考えています.

1)顎関節症の中では関節円板前方転位が最も割合が高い

 図9をご覧ください.このグラフは2008年1年の間に東京医科歯科大学歯学部顎関節治療部に来院した,全顎関節疾患新患患者のうちの左の顎関節に問題があった,1657名の病気の種類別割合を示したものです.顎関節症には日本顎関節学会が定めた4つの病態(病気のタイプ)があり,それぞれ咀嚼筋痛障害,顎関節痛障害,顎関節円板障害,変形性顎関節症と呼びます.その中で顎関節円板障害が70%と圧倒的に多いことを示しています.この顎関節円板障害というタイプが先回説明した,関節円板が主に前方にずれて起こる病気なのです.このように,顎関節症患者が多く来院する施設においては顎関節症のうちでも顎関節円板障害の割合が最も高くなります.なぜこれほどまでに顎関節円板障害,すなわち顎関節円板前方転位が多いのでしょうか.それを考える第1のヒントは他の哺乳類の関節構造にありました.

2)各種哺乳類の歯の機能とあごの運動および顎関節の形と関節運動の関係

図10をご覧ください.この表は代表的な哺乳類の歯の機能とあごの運動方向をまとめたものです.ネズミやビーバーのようなげっ歯類の前歯(切歯)は木や草をかじりとり,奥歯(頬歯)ですりつぶします.その機能はあごが前後に動くことで行われます.またウシやヒツジなどの草食類の前歯(切歯)は草を刈り取り,奥歯(頬歯)はすりつぶします.あごの動きはげっ歯類と同じ前後運動もしますが左右への運動もできます.さらにライオンやイヌなどの肉食類は前歯(と言うよりも犬歯)がかみついて獲物を押さえ込み,また肉を引き裂く機能があり,奥歯(頬歯)ではすりつぶしはしないものの,細かく引き裂く機能があります.そのあごの動きは回転運動(蝶番運動)だけです.

図10

このように,各哺乳動物にはその餌の性質にあわせた歯の機能とあごの動きが備わっています.

(1)肉食類の蝶番(回転)運動と顎関節形態

そのようなあごの運動を支える関節の構造はどうなっているのでしょうか、げっ歯類と草食類の説明はあとにして,まずライオンなど肉食類の構造から説明します.ライオンがカモシカやシマウマに襲いかかる場面は,しばしばテレビなどでも出てきますよね.シマウマのおしりにライオンがかみついたとき,しっかりと噛み締めていないと力の強いシマウマにあたった時には,振り切られて逃げられてしまうかもしれません.実際にライオンの狩りでの成功率はあまり高くないそうです.それでもライオンのような肉食動物のあごの関節は,そのような獲物に逃げられることを少なくしようとする構造的工夫がなされているのです.関節の軸(下顎頭)を上から見ると,拳銃の弾丸ないし紡錘状の形をしています.その下顎頭の入る受け手側の頭の骨(側頭骨)はこの紡錘型の下顎頭を前後から取り囲むような形になっているのです(図11). 

 つまりライオンの下あごは上下の回転運動はできますが,前後には動けないようになっているのです.このことはかみついた獲物が力強く逃げようとしても,一旦しっかりとかみついていれば,あごが引っ張られても動かず,逃げられることを防ぐ役割を持っていることになります.またもう一つの特徴として,次に説明する齧歯類や草食類と異なり,かみ合わせ面と同じ高さの後方に顎関節があります.齧歯類や草食類では下顎の揺れが咀嚼に必要なのですが,ライオンではがっちり固定されていた方が獲物を逃がしにくいので,このようにかみ合わせと同じ高さに顎関節が位置しているのです.

(2)げっ歯類の滑走運動と顎関節形態

 図12に示すのはアメリカシマリスの下顎頭と下顎頭がおさまる下顎窩です.この雨樋状の下顎窩に前後に長い下顎頭が収まり,下顎頭はある程度上下に回転しながら前後運動(滑走運動)して切歯でのかじり取りと歯(人間の臼歯に当たる)でのすりつぶし動作を行っているのです.

(3)草食類の滑走運動と顎関節形態

図13に示すのはヤギの下顎頭と下顎頭が頭の骨と組み合わさったところです.この下顎頭(①)で特徴的なのは,下顎頭の上の面がへこんだ形になっていることです.この形は草食類にのみ特徴的な形なのです.ではそのような形になっている下顎頭はどのように上の下顎窩と調和しているのかと考えますが,草食類の下顎窩は非常に狭く,とても下顎頭がおさまる大きさはありません.その代わりに下顎窩の前方の骨が下に向って前後内外に大きくなっており,この下に向いて出っぱった部分に,上がくぼんだ下顎頭が対面する形になっているのです(②).しかも③に示したように,下顎頭はかみ合わせ面より高い位置にあります.これがどのような事を表わしているかというと,ここでウシやヤギが草を咬んでいる姿を思い浮かべてください.まず,草の刈り取りですが,このためには下顎頭を前方に移動させ,その動きで切歯が合わさりますので,ここでかみ切る,あるいは挟み込んで頭を振ることでちぎり取ります.刈り取った草は奥歯に運ばれ,下あごを左右に動かしていたはずです.あのように下あごを左右に揺らしながら,頬歯で草をすりつぶしているのです.実は哺乳類が進化していく過程で,出現した草食動物が食べる草の方も食べられにくくしようと進化していった事が推測されています.どうしたかというと,草食動物が最も多く餌としていた,イネ科植物は,葉の中にケイ酸塩という小さな石の結晶を蓄積し,食べられにくく進化したのです.そのイネ科植物の抵抗進化に合わせて草食動物も進化し,強く効率的な咀嚼ができるように,今のような関節と咀嚼運動様式を獲得して来たものと考えられています.

(4)雑食性動物の咀嚼運動と顎関節形態

図14に示すのはニホンイノシシの下顎頭と,上下の歯を噛み合わせた状態での左顎関節を横後ろから見たものです.雑食性といっても草食をメインとした食餌となるイノシシはげっ歯類に類似して前後に長い関節面を持っています.この面を前後に動かすことですりつぶし咀嚼を行っているのでしょう.しかしげっ歯類とは異なり,下顎窩の前方に下方に出っぱった骨があります.この関節隆起と呼ばれる下方への出っ張りはヒトにもあります.ヒトの場合,この後ろ向きの斜面に,関節円板を介して下顎頭が押しつけられ,ここが咀嚼の支点となって強いかみ合わせの力が発揮されることが分かっています.おそらくはイノシシの場合も同様にこの構造が強い咬合わせ力を作り出し,好物のタケノコやイモ類,クルミやクリなどを粉砕することを可能にしているのでしょう.

(5)類人猿の咀嚼運動と顎関節形態

図15に示すのはオランウータンの下顎頭と上下あごを咬合わせた状態の顎関節,また下顎窩を下から見上げたところです.オランウータンも雑食性と言われていますが,主食はイチジクのようなやわらかい軟果植物で,これに加えて樹木の若葉や昆虫,鳥の卵や時に小動物も食べるとされています.下顎頭や下顎窩の形はヒトの顎関節によく似ています.植物食をメインにするといっても,草食類のように,硬いイネ科植物を食べるわけではなく,果実や樹木の若葉であることから,草食類ほどの大きな滑走運動は必要なく,したがって下顎頭上面の前後幅および下顎窩から関節隆起への滑走面の前後幅は,げっ歯類や雑食動物に比べても狭くなっています.すなわちオランウータンの滑走運動は,他の食性を示す滑走運動動物に較べてかなり限定されたものであると考えられるのです.

分類学上,ヒトやオランウータンを含むヒト科には,他にゴリラ,チンパンジー,ボノボが含まれますが,下顎頭と下顎窩および関節隆起の形は皆類似しています.そのため,下顎頭の運動様式と食生活はヒトの先祖を含む類人類全体を通じて類似していただろうと推測できます.すなわち樹上生活であり,軟果植物と樹木の若葉,昆虫と小動物が主要食物であるとするなら,げっ歯類におけるような強いかじり取りや草食類のようなイネ科植物のすりつぶし咀嚼は必要なかったと考えられます.また昆虫や小動物の捕獲にさいしても,獲物の抵抗が大きいとは思えず,肉食類のように獲物確保のための下顎頭の固定化も不要であったと考えられます.このように類人猿の食生活は地上生活動物に較べて,捕食と咀嚼の両面からは負担の少ない,顎関節の立場からは滑走運動にも蝶番運動にも特化しない,融通性の高い構造であると考えられるのです.

(6)ジャイアントパンダの咀嚼運動と顎関節形態

ジャイアントパンダの分類学上の位置は一応アライグマ科に属し食肉目,つまりイヌやネコと同じグループにおかれています.しかしイネ科植物で,葉にケイ酸塩という石の結晶を含む笹の葉を食べることでも有名ですね.笹の葉を食べるのだとすると,ウマやネズミのように滑走関節をもつのだろうと推測できます.ところが実際にパンダの頭蓋骨を見ると図16に示すように,肉食類と全く同様,正確にはクマと同じ顎関節形態をしています.下顎頭の形態は紡錘状ですし,かみ合わせ面と同じ高さの後方に回転運動だけしかできない構造になった顎関節があります.これは完全に肉食類の蝶番関節そのものです.ですからこの関節では笹の葉をすりつぶすことはできないのではないかと思われます.現に上野動物園のパンダ飼育を担当した方にうかがった話しでは,糞に未消化の笹線維が大量に含まれているとのことです.ということはジャイアントパンダにとって笹とは本来の主要食物ではなく,他に食べるものがないときにやむをえず食べ始めたものなのだろうと考えられます.さらに現時点では食物が変化したことにともなう,顎関節の形の適応がいまだにできあがっていない,言い換えると形態進化の途上にあることを思わせます.

3)ヒト顎関節円板の解剖学的問題

 ここでは他の動物と比較した形でヒトの顎関節について説明いたします.

(1)顎関節円板を後方から支える構造がない.

 1960~80年当時,顎関節疾患等を専門にしようとしている歯科医が,基本的知識として知っているべき顎関節の解剖構造がありました.それは「二層部」と名付けられた関節円板を後方に連結している線維構造です(図17).この構造物は1954年にイギリスの解剖学者であるリース氏が見つけて報告したものです.この構造については,世界的に有名な人体解剖書でもいまだに掲載されており,この構造物の存在を信じている歯科医は世界中に多くいますが,実はこの構造物はなかったのです.その話しをいたします.

関節円板前方転位という病態(病気の状態)が初めて報告されたのは1979年ですが,この関節円板が前方にずれるという現象が顎関節症の来院患者の中の60%以上になるということは以前お話ししました.円板のずれがなぜこれほど多いのかということが非常に疑問に感じられました.と言いますのは上にも書きましたように,顎関節症を専門とする歯科医であるなら皆,リース氏が報告した円板を後方の側頭骨に連結している「二層部」があることを知っており,この構造があるにもかかわらず,前方にずれるという現象がこんなに簡単に起きると言うことが信じがたいからでした.そこでヒトの顎関節を解剖して調べてみました.その結果,リース氏が報告した「二層部」という線維構造のうち,上方の線維構造は存在すら見られず,下方の線維構造も,リース氏は下顎頭の後面に連結するとしているのですが,そうではなく下顎頭の両脇側面に別れて連結するものだと言うことも分かりました.つまり関節円板が前方にずれやすいのは,後ろから引っ張って支える線維構造がないからだったのです.

図18はヒトの右側の顎関節を,斜め後ろから見た状態で透過した形で描いた模式図です.組織構造を観察して立体的にくみあわせた画像です.関節円板を作り上げていた太い線維は皆関節の軸である下顎頭に連結していますが,後ろに向う丈夫な線維はないことを示しています.円板が後ろから支えられていると信じていたことは間違っていたのです.逆に,後ろから引っ張る線維がないからこそ,下顎頭は自由に前方に移動できたのです.

(2)ヒト下顎頭と関節隆起は滑走運動に適していない

図19をご覧ください.これはヒト下顎頭とその下顎頭がはまりこむ下顎窩および前方の関節隆起です.前述のオランウータンの下顎頭と下顎窩によく似ているでしょう.この下顎頭を見ると内外幅に比べて前後幅が非常に狭いことがおわかりになると思います.ヒトを含むヒト上科に属する類人猿は雑食性とされますが,同じ雑食性のイノシシは下顎頭の上面の前後幅が広く,それによって,大きな前後滑走運動が可能になっています.ヒト下顎窩の前方には加えて下に向かって出っ張った関節隆起があります.この構造も他の類人猿と同様です.こういった背景と,ヒトだけに円板前方転位があることを考え合わせると,ヒトは,元々他の類人猿も同様にもっていた顎運動を変化させようとしたのではないかと思えるようになりました.どのような運動かというと,下顎頭を前方に滑走させる運動です.この前方滑走運動を元々の動きより大きくしようとしたのではないかと考えています.その結果前後幅の狭い下顎頭の上で円板は安定して位置を定めることができず,また前方の関節隆起が下方に伸びている状況で,前方から円板を引っ張る力を強く及ぼした結果,後から支える構造がない関節円板は前下方に落ち込むことになったのだと考えられるのです.

4)ヒト顎関節の進化的未熟性

(1)人類進化と行動様式の変化

これまで説明してきましたように,関節円板前方転位はヒトだけに出現し,他のヒト科類人猿には,いまのところ見つかっていません.形はよく似ているのにヒトだけに出るのです.この理由を探るにはヒトが他の類人猿とは異なる顎の動きを新たに始めたのではないか,その動きが円板を前にずらす危険性を増大させたのではないかと考えるのが良さそうです.ではどんな新しい顎運動をヒトは始めたのでしょうか.それは前の話で述べたように前方への滑走量の増加です.しかも人類進化の中で,この下顎頭の前方滑走量を明らかに増大させたであろう,現象が起こっているのです.それは二足歩行の開始に伴う,社会性の獲得とそこに付随するコミュニケーションの必要性です.

現存する人類の起源はアフリカにあるとされています.アフリカ大陸の中央部で起こった造山運動によって大陸は東西に分断され,大西洋から吹き込む湿潤な風は中央山脈によって遮断されました.山脈の東側では森が消えて乾燥地帯が広がり,そのあたりにいたヒトの祖先は乾燥したサバンナに追い出されたとされています.それを契機に樹上生活をしていたヒトの祖先は生活の大転換を余儀なくされたはずです.それまでイチジクのような軟果果実を主食とし,昆虫や小型動物も食事に取り入れていたので,新しく草原に出て行ってからも,口当たりが似ている,大型肉食動物の残した獲物の残り肉も取り入れていたようです.その後いつまでも肉食動物のおこぼれをいただくばかりではなく,仲間が集まり,自ら狩りを始めたとも考えられます.こういった環境変化やそれに伴う行動変化に際して,ヒトは二足歩行を開始したと考えられています.天敵のヒョウや狩りの獲物をいち早く見つけるためには,四足歩行より二足で立ち上がり目を高い位置に持って行くことが有利になります.また立ち上がることで,獲物を持ち運べる,あるいは獲物を狩るための道具を手に持つことも可能になります.集団での行動では声による情報伝達とそれによる連係動作が必要になりますから,声によるコミュニケーションを発達させたであろうと推測されています.

(2)狩りをするときに顎関節は

豊かな熱帯雨林から乾燥したサバンナの広がる土地に出て行った人類の祖先たちは,そのうちに集団になって他の草食動物を捕まえて食べるようになったとされています.現在でもそうですが,肉食動物が餌として捕まえる草食動物の捕獲割合はそれほど高くなく,失敗する場合の多い事が知られています.ヒトの祖先が狩りを始めた頃も,草食動物を捕まえることは簡単ではなかったはずです.何回もの失敗を繰り返して学習することで,次第に捕獲能力を高めたでしょう.そこで重要になるのが,二足歩行で眼を高い位置に持ち上げ,草の間から獲物をみつめながら,そっと近づく集団行動であり,集団構成員が獲物に近づき,良い位置を占めたところで,リーダーが大声をあげて一斉に攻撃したでしょう.あるいは草食動物を大勢で大声あげて追いかけ,崖から落とすことで食料を得ることもあったのでしょう.

このように二足歩行で獲物をみつめながら大声を上げるという動作が,顎関節においてこれまでにない動きを要求することになったのです.どういうことかと言いますと,二足歩行になると背骨が垂直になります.首の骨も上下方向に並びます.この状態で大きな口を開けようとすると,下あごは首の前面が邪魔をして開口が制限されてしまいます.

肉食類の関節で説明しましたが,彼らの関節の軸は回転運動(蝶番運動)しかできないようになっています.そのため,猫座りして首を立てた状態であくびをしようとするとき,肉食類は上あごを上に回転させて大きく口を開こうとします.上あごは頭の骨と癒合していますので,頭を後ろにそらせることで口を大きく開けているのです(図20).

ヒトの祖先も直立した状態で大きな口を開けようとするときに,頭を後ろにそらせれば口は大きく開きます.しかしその動作は獲物から視線を外すことになってしまいますので,獲物を捕るには不都合です.しかしヒトは元々森で生活していたころ,軟果植物や若葉をすりつぶして食べるために多少は前後左右の動きができるような関節を備えていました.その前方滑走をさらに大きくしていっただろうと推測されます.すなわち,視線を前方に固定したまま大きな口を開けるためには,関節の軸(下顎頭)を大きく前方に移動させる必要があったのです.こうするとあごの回転の支点が前に移動しますので,頭を後方に反らせなくとも,大きな開口が可能になるのです.

このようなあらたなあごの動きを獲得していったわけですが,3)-(1)で説明したように,関節円板は後ろの骨から支え結合する線維はなく,3)-(2)で説明したように,関節の軸である下顎頭の上面はイノシシのような雑食動物に較べても前後幅が短いのです.そのために関節円板を安定して下顎頭の上にとどめておけないのです.こういった関節構造をもったまま下顎頭を大きく前方に移動させることを繰り返すことで,関節円板を前方にずらせやすいという状況が生れていったものと思われます.

ヒトの祖先が二足歩行を開始した時期にはいくつかの考えがあるようですが,最大限に伸ばしても700万年前と考えられています.それに対して,滑走運動が主体となるげっ歯類や草食類が植物食に適応した顎関節を持つようになったのは新生代の始新世(5500~3700万年)から漸新世(3700~2400万年)にかけてだと推測されています.ヒト祖先の二足歩行開始からの期間を考えると、他の哺乳類のあごの運動様式獲得時期に較べて極端に短いのです.こう考えると,ヒト顎関節は29-(6)で説明したジャイアントパンダと同じく,必要な前方滑走運動を支えるだけの解剖学的進化を獲得できていないと考えざるをえないのです.

このように,ヒトにみられる関節円板前方転位はヒトが二足歩行を開始したことによって引き起こされた現象であると考えることができます.二足歩行が原因となった問題として,肩こり,腰痛,胃下垂,遊走腎等いろいろな疾患が取り上げられていますが,関節円板前方転位も同じ背景を持つ疾患といえるのです.

しかし中には関節円板前方転位の状態にうまく適応しているヒトもいます.図21は関節円板前方転位になり,大きく口を開けられなくなり,われわれの施設を受診し,TCHの是正とリハビリトレーニングによって痛みや開口障害の症状が消失した50歳女性です.術後のMRI画像を示しています.上が口を閉じた状態,下が口を大きく開けた状態です.上の閉口時画像では関節円板は下顎頭の前に落ちています.この状態から開口すると,下の画像のように,関節円板は更に前方に移動し,下顎頭も前方に出ていることがお分かりいただけると思います.その出てきた下顎頭の上面が平になり,上の関節隆起後斜面に平行になっていることが見てとれます.この形はあたかもげっ歯類や草食類の関節と同じように滑走運動に有利な形態と言えます.このことは,ヒトは大きな滑走運動には不利な関節をもって生まれて来ますが,個体の一生の間に,いわば個体内進化とも言える形態適応を果たすことができるとも思えるのです.関節はどの部分もそうですが,成長と加齢に伴って形態は大きく変化します.顎関節も大きく変化しますが,機能を保ったまま変化し,あるいはより適応形態に変わる能力を秘めているのです.

5.関節円板は前方転位していてかまわないと考えるに至った経緯

以前説明しましたように,ヒトの顎関節円板は大きな口を開く際に,関節の軸である下顎頭とともに前方に移動し,下顎頭を支える軸受けになってくれます.また咀嚼運動するときは下顎頭を包み込み,しっかりと軸上の骨に固定することで強い咬合力を発揮するための支点を作ってくれます.そのため関節円板が正常に機能しているに越したことはないのですが,これまで説明してきたように,多くの人の顎関節円板は前方にずれています.実際,顎関節症の症状を自覚していないボランティアの顎関節を調べた研究があります.たとえば1987年に調べられた研究では42顎関節中13関節で円板前方転位があり,他にも1989年調査では40関節中6関節,2001年の調査では124関節中30関節で円板が前方にずれていました.これらボランティアの円板がずれていた人は何ら異常を感じていなかったわけです.このように円板がずれていても無症状の人がいるということです.

また木野自身の臨床経験もあります.関節円板前方転位という病態は1979年にアメリカの研究者が発表したものですが,それ以前の顎関節症治療においてはもちろんですが,顎関節円板がずれているかどうかということは考えませんから,木野が顎関節症患者治療を開始した1976年当時は,患者さんに対して当時しばしば行われていた強制的に大きな口を開けさせるというトレーニングを行わせていました.円板のずれがある人の場合は強制的に大きく口を開けさせることで,下顎頭が前にずれている円板を更に後方から推しますので,円板のずれは更に大きくなります.しかし口が大きくあくようになると痛みが消えました.また顎関節症が治ってから,かみあわせの治療を行った患者さんもその後安定したかみあわせが維持できました.その後に関節円板前方転位という病態の存在が発見され,さらにその後にMRIによって顎関節の円板の姿が分かるようになってから調べると,図21に示した患者さんと同様に,円板がずれたままでも問題なく暮らしている患者さんの存在が明らかになったのです.このような強制的に円板のずれを大きくさせるという治療法が可能だったことは関節円板の機能的必要性に疑問を持たせるものです.

もう一つ経験があります.1979年に円板前方転位という病態の存在が明らかになり,その後はずれた関節円板を元に戻すための手術療法がいくつも提案されました.その手法を取り入れて木野も数々の患者さんにずれた関節円板を元に戻す手術を行いました.手術が終わると,数日後には傷が固まらないように関節を動かすトレーニングを開始します.それによって大きく開口できるようになり痛みも消えるのですが,退院してしばらくしてから,1996年に大学病院に設置されたMRIによって術後の関節を調べたところ,戻したはずの関節円板が皆ずれていました.今から考えると,当時はTCHという概念はありませんから,TCHを持っていた患者さんはすぐに円板のずれが再発したはずで,それに加えて術後の開口練習が上記した強制開口練習と同じく円板を前方に押し込んでいたことになります.それでも痛みなく大開口可能な患者さんがほとんどでした.

このような経験から,現在では関節円板がずれていても,極々初期でなければ元に戻そうとはしません.手術以外の方法で戻すことができる初期のみ,戻そうとすることはありますが,関節注射とか関節手術を行って戻すという手法は患者さんに苦痛を与えるだけで効果はないことが分かりましたので,戻すかわりにもっとずれを大きくするというトレーニング法を採用するようになりました.