かくれ顎関節症という状態があることをご存じでしょうか.この名称そのものはわれわれが勝手に名づけたもので厚労省に登録された正式病名ではありません.名前のごとく顎関節症が隠れている,もっと正確に言うなら,以前経験した顎関節症の症状が完全には消失していないままになっている状態です.患者さん自身が顎関節症であるという認識のないことが多く,認識していないことが原因の一端になっているのであろうと思われますが,歯科医も顎関節症患者として注意深く取り扱うことをしないため,この状態が治療トラブルの原因になることがあります.もちろん隠れていた顎関節症が悪化すれば患者さん自身が苦しむことになります.
目次
1.かくれ顎関節症とはどのようなものか
かくれ顎関節症患者とは,顎関節症の治療を受け,まだ多少症状は残るのですが,日常生活に支障がなくなったとして歯科通院をやめている患者さんであり,大開口しても全く痛みのない状態や,元通りの自由な顎の運動状態までの回復を果たしていない方のことです.普段は痛みを意識することなく食事に支障を感じることもないのですが,体調悪化・疲労蓄積といった状態になると,口が開けにくい,あるいは開口時の痛みが再発するといったことを繰り返しています.多くの方は他でも説明した上下歯列接触癖(Tooth Contacting Habit(TCH))を持っています.TCH是正がなされていないことから咀嚼筋や顎関節への負荷がいまだに続いていて,顎関節症からの完全離脱がはかれていないわけです.
2.かくれ顎関節症はどうして生れたのか
一般的な顎関節症の治療にはマウスピースを使った方法が現在も行われています.もちろんこの治療によって完全に痛みが消失し,元通りの口の開き方に復帰する方がいることは確かです.しかし長期間にわたる通院治療によってマウスピースの調整を繰り返しても,症状の完全消失には至らない方もいます.このような患者さんの多くが,初診時の頃のつらい症状は改善し,開口量も初診時と比べれば増大しているので,生活での不自由さはかなり小さくなっています.場合によると痛みを強くは意識することがない状態になっていることもあります.このような状態になると「良くなった」として,通院を自己判断でやめてしまう場合があるのです.または歯科医の方も「これ以上の改善は難しいので,これからはご自分の関節と上手につき合って暮らしてください」と宣告して治療終了とすることもあります.
このような形で歯科通院を止めた患者の中にかくれ顎関節症患者がひそんでいます.顎関節症の原因としてのTCHの役割の大きいことが明かになったことで,かくれ顎関節症患者の大部分も,TCH是正がなされていないために症状が残っているということが明確になってきました.すなわちTCHがあることで咀嚼筋の活動時間が長時間化し,それがまた顎関節への押しつけも続けることで,筋肉と関節への過剰な負担が維持されているため,完全な症状消失に達していないということなのです.われわれの調査では来院する顎関節症患者さんの中で痛みを有する方々の8割近くにはTCHがあると見なしています.もしこの数字がお痛みを持った顎関節症患者さん全体に当てはまるとしたら,それら患者さんの大部分に対して,これまでなされてきた治療ではTCH是正は行われていないはずですから,かくれ顎関節症患者が全国に多数いるであろうと推測されます.すなわちTCH是正の行われなかった顎関節症治療では必然的にかくれ顎関節症患者を作り出してきた可能性があり,しかもかなりの数に上るであろうとも思われるのです.
3.かくれ顎関節症の危険性
かくれ顎関節症の状態にあることで,生活や歯科治療において様々な影響が出てくることを説明します.患者さんは「良くなっているはずだ」と考えており顎関節症であるという認識がありません.歯科医の多くもどうしてそのようなことが起こるのかに関する認識がありません.そのためにかくれ顎関節症患者への歯科治療を,通常の顎関節症を持っていない患者と見なして治療を開始するのです.ところがTCHがある患者さんでは,その方を取り巻く様々な環境状況,あるいは体調によってTCHの長時間化がしばしば起こります.その程度によって咀嚼筋の疲労の強さ,関節への負荷の強さが変化します.これらの変化が様々な影響を作り出すことになります.
1)ときおり顎関節症の症状が再発する.
開口時の痛みや開口障害が一時的に強まり,しばらくするとまたおさまって元に戻るということが繰り返されます.以前経験したような強い症状にまで発展することはないのですが,このようなことが繰り返され,無理をすると症状が強まりやすいことを経験しているために,患者さん自身が学習し,食事では硬い物,大きな食品を避けるように生活しています.また精神的ストレスの増加,体調悪化や疲労蓄積が症状を強めることを自覚している方も多くおいでです.
2)長い時間の歯科治療が困難になる.
関節や筋肉への負担が常に存在していて疲労していることから,歯科治療での長時間におよぶ開口の持続は困難で,治療途中でしばしば休憩を求めます.また大開口できない場合があり,奥歯,特に上顎臼歯部の根の治療は困難を極めることがあります.
3)つめもの,かぶせものでのかみ合わせの治療の安定化を阻害する.
咀嚼筋が疲労しており,しかもその疲労の程度は左右で違っています.またTCHの長時間化を作り出した原因にも色々あるために疲労の大きさも様々であることが多いのです.このために顎の位置が不安定で,かみ合わせ位置は微妙に変化します.この変化を無視してかみ合わせ位置を治療で決めると,その後に「うまくかめない」,「高すぎる」,「接触しない」といった治療後の不具合がいつまでも続くことになります.
4)咬合違和感患者を作り出す.
3)に説明したような患者さんの不具合の訴えに従って,次々にかみ合わせ関係を調整し続けると,ますます咬み合わせ位置が不安定になります.また患者さん自身が安定したかみ合わせ位置を探そうとして,無意識にかみ合わせ接触を続けるようになると,かみ合わせを支える歯をとりまく歯根膜の,かみ合わせ接触感覚が過敏化するようになり,ひどくなると「どこで咬んだらいいかわからない」という,いわゆる「咬合違和感」患者が形成されることになります.